北朝鮮との国交正常化交渉について

 9月17日ピョンヤンで行われた初の日朝首脳会談で、北朝鮮の特殊機関が二十数年前に、わが国で平穏に暮らしていた何の罪もない男女を多数拉致し、北朝鮮に連行していたこと、そのうち8名もの方が亡くなっていると、北朝鮮の事実上の国家元首である金正日氏の口から明らかにされました。

 わが国の領土内で外国の政府機関により誘拐が行われたという事実、わが国の政府による拉致疑惑の提議にこれまでは「そのようなことはあり得ない」と交渉の席を立っていた北朝鮮が一転して事実を認め、謝罪の言葉が語られたことに驚くとともに、被害者の多数が若くして亡くなられたことに衝撃を覚えました。被害者のご家族のご心痛を想いますと、言葉もありません。

 拉致の目的について若干の言及があり、責任者はすでに処罰し、再びこのようなことは起こさないとの言葉もあったわけですが、北朝鮮政府に本当に反省の気持ちがあるならば、まず最初に一日も早く、生存者については家族との面会や帰国を実現すること、亡くなったとされる方については、ご家族が現地に赴き経緯について説明を受け、関係者から直接話しを聞くなどして当時の事情を詳しく知ることができるよう、最大限の便宜を図るべきことは当然のことです。

 日本政府は、被害者が原状を回復し、あるいは充分な補償が受けられるよう尽力するとともに、日本国民が再びこのような被害を受けることのないようあらゆる努力をしなければなりません。その第一歩は、来月に再開される国交正常化交渉など北朝鮮との話し合いの場で、真相を明らかにすることと補償を求めていくことになります。

 ところで今回、拉致の事実が明らかになったことについて、「国交正常化交渉など再開すべきでない」「コメ支援など全く無駄だった」「政府が20年間も拉致事件を無視し続けたので犠牲が生まれた」といった批判が聞かれます。私自身は「コメ支援も含む国交正常化への努力があり、正式にテーブルに着いた会議の中で拉致疑惑の解明を迫ったからこそ、北のトップも拉致の事実について認める決断をした」「これからは国交正常化交渉を進める中で、拉致事件の再発防止を含むわが国の安全と北東アジアの平和を実現していくべきである」という立場です。以下、これらの点について少し詳しく述べてみます。

 私が宮沢内閣の官房長官に就任した1992年当時、北朝鮮は金正日氏の父親である金日成主席の時代でしたが、当時は北朝鮮による核兵器開発疑惑が国際政治の大きな問題でした。ゴルバチョフ政権時代にソ連との関係が悪化し、前年の中国と韓国の電撃的な国交正常化で外交的孤立感を深めていた北朝鮮は、スカッドミサイルを改良した「ノドン」を開発・配備し、また黒鉛型と呼ばれたプルトニウムが比較的多く発生する旧型の原子炉でIAEA(国際原子力機関)の査察を拒否しながら核弾頭の製造に必要なプルトニゥムの抽出を行ってることが疑われました。

 この核開発疑惑は、新たに発足したクリントン政権の下で米朝の軍事的緊張にエスカレートし、1994年夏には、現在の対イラク攻撃計画と同様に戦争寸前の事態にまで至りました。非自民の細川政権、羽田政権の下では、自民党内閣以来の石原信雄官房副長官などが中心になり、アメリカが北朝鮮に軍事攻撃を開始した場合にどのような協力をするかが積極的に検討されました。しかし、アメリカが先制攻撃を行えば国境に近いソウルをはじめ韓国が激しい反撃を受け、また北朝鮮の工作員が日本国内でどのような破壊活動を行うか想像もつかないということがあり、下野した自民党の党首だった私は衆院本会議の代表質問で戦争回避の努力を訴えました。

 事態が急展開したのは6月のカーター大統領のピョンヤン訪問と金日成主席との会談でした。北朝鮮は再び核査察を受け入れる方向で話し合いの席に着き、やがて当時のハン・スンジュ韓国外相の発案とも言われる米朝の「枠組み合意」と言われる合意が成立します。北朝鮮が黒鉛型原子炉を廃棄し、アメリカが比較的プルトニウムの生成が少なく、核査察も容易な軽水炉を主として韓国と日本の財政負担により提供するという内容でした。

 私は当時村山内閣の副総理兼外相に就任した直後でしたが、アメリカ政府からは「ぜひアメリカ、韓国と歩調を合わせてほしい」と求められましたが、日本国内からは「拉致問題の存在を認めない北朝鮮に協力すべきでない」という圧力にさらされました。私自身は、拉致問題を理由に協力に踏み切らなければ全体の状況は改善されず、問題の解決がかえって遅れるという判断から、ガルーチ大使の対北朝鮮交渉に積極的な支持を表明し、日本政府の協力姿勢をリードしました。

 その後の日朝国交正常化交渉は、北朝鮮がアメリカとの関係を優先したこともあり、日本側が拉致問題に言及すると北朝鮮側が「あり得ない」と席を立って中断するといった場面が繰り返されました。一方で、北朝鮮が建国以来の経済的困難を招き、食糧危機が深刻化したこともあり、わが国は人道的見地に立ち、何回かにわたり国際機関の呼びかけに応じコメ支援を行いました。

 拉致が明らかになったことで、「コメ支援は意味がなかった」といった短絡的なコメントが見られますが、これは直接的な見返りを求めた援助ではなく、一方では文字通りの人道支援であり、他方では「我々は敵対したり体制崩壊を狙うものではない。正常な関係を築きたい」という意思のサインを送り、日朝正常化交渉を前に進める環境作りを図るという狙いに基づいたものでした。このような経過で北朝鮮の恒常的食糧不足への取り組みを含め交渉再開の呼びかけをねばり強く続けた上で、北朝鮮に「拉致問題を横に置いては交渉を前に進めることはできない」と納得させたからこそ、今回、北朝鮮がブッシュ大統領の「悪の枢軸」発言に象徴される国際情勢の変化もあって拉致事件の存在を認めることに踏み切ったのであり、コメ支援は意味がなかったどころか、今日ようやく北朝鮮が犯行を認めるに至るプロセスを形成する重要なひとつの構成要素だったと考えます。

 橋本内閣から小渕政権の前半にかけて、私は外交交渉の現場から離れていましたが、その間に起こった事件の一つは北朝鮮による長距離ミサイル「テポドン」の発射実験でした。報道によると、日本政府が抗議のためニューヨークの北朝鮮代表部に電話をかけても応対せず、ファックスを送ったが受け取ったかどうか判らないという状況でした。いわゆる不審船事件もありました。私はこれでは日本国民の安全を守ることはできないと危機を感じ、自民党総裁選で再選を目指した小渕総理に「韓国の金大中政権の太陽政策により半島情勢は大きく動く。日朝正常化に動くべき時」と強く進言しました。

 日米安保ガイドライン改訂を成し遂げ、東京での日韓首脳会談で新たなパートナーシップを確立して日米、日韓を固めた小渕総理は、九州・沖縄サミットの成功のためという理由で私を外務大臣に再任しました。同時に日朝国交正常化に向けて動くべき時であるという私の進言を容れ、村山元総理の訪朝団に親書を託すなどしました。しかし、再開した日朝正常化交渉は難航しました。金大中大統領の歴史的なピョンヤン訪問、オルブライト国務長官の訪朝など北朝鮮が南北関係、米朝関係を優先したこともあると思います。

 この小渕内閣における日朝正常化交渉の際には、拉致被害に遭った方々のご家族が何度も外務省に見え「北朝鮮が拉致を認め、被害者の原状回復が図られるまでは正常化交渉を進めるべきではない、コメ支援も行うべきではない」と訴えられました。私が直接お目にかかったのは2回でした。私は、スターリン時代のソ連など共産主義独裁国家の歴史を考えれば、拉致が行われた可能性はあり、被害者が生存していない恐れもあるのではないかと考えていました。そして、真実に近づくためには双方がテーブルに着く必要があり、それをどう北朝鮮に認めさせるかを考えていましたが、被害者家族の心情を考えればそれをストレートに述べることもできませんでした。

 「新たな拉致事件を引き起こさないためにも、北朝鮮との関係を正常な関係にしなければならない。拉致事件について手がかりや情報をつかみ、生存者の原状回復を図るためにもそのことは必要だ。しかし、拉致事件が解決しない限り国交正常化交渉に入らないというのでは、新たな拉致やテロが行われる危険な状態が解消しないし、過去の事件の解決も遅れるばかりだ」というのが私の考えでした。拉致の事実が明らかになり、被害に遭われた方々には死亡しておられる方も多いと伝えられた事実を前に、私はご家族のみなさんに対し、心からのお見舞いを申し上げたいと思います。

 拉致事件の事実、被害者の多数が死亡していることが明らかになったことを知った上で、小泉総理は日朝正常化交渉の大枠を定めた平壌宣言に署名しました。署名せずに帰るべきだった、拙速だったと言う批判も聞かれますが、私はこの総理の決断を支持します。

 宣言の内容は、まず植民地支配の謝罪については、1999年の日韓パートナーシップ宣言にも盛り込まれた1995年の「村山談話」の内容を踏襲したものを北朝鮮が受け入れる、戦後処理は賠償という形をとらず、日韓正常化のとき採用した経済協力方式で解決することで合意するというものになっています。この二つの点は、日本側にとっては韓国とのバランスを考えるとこれ以上のものを出すわけにはいかないという線ですが、北朝鮮がこのハードルを越えてくるかどうか見通しは必ずしも楽観できないものでした。この点で国際的には日本外交は大きな成果を挙げたと評価されています。

 したがって、この共同宣言の内容はわが国にとって納得のいくものであり、ここで署名せずに北朝鮮が態度を変えるよりは、機会を捉えるべき場面でした。

 しかし、交渉は始まったばかりです。小泉政権は引き続き拉致事件の真相解明や原状回復などで国民が納得する解決を求めると同時に、日朝国交正常化がわが国の安全と北東アジアの平和にとり大きなプラスになるよう、アメリカ、韓国両国とも緊密な連絡をとりながら着実に交渉を進めてほしいと考えます。